1.5割増しの魔法
それはきっと、ひとさじの気持ち。
夏の気配が濃くなると、
冷蔵庫のポケットには
いつも大きな冷茶ポットが鎮座する。
中身は決まって麦茶だ。
我が家の夏は、
このポットを絶やさないことから始まる。
麦茶のパックを煮出す日もあれば、
水出しポットに放り込んで冷えるのを待つ日もある。
汗をかいて帰宅した夕暮れ。
お風呂上がりの火照った体。
冷蔵庫を開け、
ガラスのコップへ勢いよく注ぎ、
一気に喉へ流し込む。
「ぷはぁ、生き返る。」
そんなベタな台詞が、
本当に口から漏れてしまうくらいには、
自分で用意した麦茶だって十分美味しい。
香ばしくて、すっきりしていて、
裏切らない夏の味だ。
だけど、世の中には不思議な現象がある。
同じ冷茶パックを使い、
同じ水から作られ、
冷蔵庫で同じ温度に冷やされたはずなのに、
明らかに味が跳ね上がる瞬間がある。
それは、
「誰かが用意してくれた麦茶」
気のせいだと言われれば、それまでかもしれない。
ブラインドテストをすれば、
科学的な違いなんて検出されないのだろう。
けれど、
「はい、どうぞ。」
と差し出してくれた麦茶は、
自分で注いだものよりも、
どう考えても1.5割増しで美味しいのだ。
2割増し、と言うと少し大袈裟だ。
でも、確実に1割以上の差はある。
その絶妙な特別感が、
私にとっての「1.5割増し」という数字なのである。
この「1.5割増し」の正体について、
少し考えてみた。
まず思い浮かぶのは、実家の記憶だ。
子どもの頃。
狂ったように蝉が鳴く庭から帰ってきた時。
母は台所から、
「早く上がって、これ飲みなさい。」
と、氷の入った麦茶を差し出してくれた。
当時の私は、
麦茶なんて勝手に冷蔵庫から生えてくるものだと思っていた。
でも大人になった今なら分かる。
暑い中でお湯を沸かすこと。
パックを取り出すこと。
ボトルを洗い、傷まないように毎日作り替えること。
あの麦茶には、
名前のつかない家事と、
「喉を渇かせて帰ってくるだろう」
という、母の時間が詰まっていた。
だから、
あの麦茶は1.5割増しで美味しかったのかもしれない。
大人になってからも、
この魔法は不意に現れる。
仕事で心も体も干からびていた午後。
同僚が、「ちょっと休憩しよ。」
と私の好きな紅茶を淹れてくれる。
一口飲んで、やっぱり思う。
「あぁ、今日も1.5割増しだ。」
自分で淹れる紅茶と、
誰かが淹れてくれた紅茶。
決定的に違うのは、
そこに誰かの時間が流れているかどうか。
自分で淹れる時は、ただの作業だ。
喉が渇いた。
冷蔵庫へ行く。
注ぐ。
飲む。
でも誰かが淹れてくれた一杯には、
私を思い浮かべた数十秒がある。
冷蔵庫を開ける時間。
重いポットを持つ時間。
グラスを選ぶ時間。
氷を入れる時間。
カップに注いでくれる時間。
こぼさないように運んでくれる時間。
その数十秒が、
見えないスパイスとして溶け込んでいる。
「これでも飲んで、ひと息ついてね。」
そんな言葉にならない優しさが、
美味しさをほんの少しだけ濃くしている気がする。


うむうむ。
労働のない、用意されたもの。
まろは大好きじゃ🐽❤️
これわかるううう!
自炊も同じで、誰かが作ってくれたご飯は不思議ともっとおいしく感じる..
そのひと手間や気持ちまで、一緒にいただいているのかもって思えたよ🥰